函館の消えた「砂山」

 数十年前まで函館大森浜(宇賀浦)には大きな砂山がありました。それは、400m×200mくらいの結構大きな範囲にわたるものでした。

 その辺りには、「サムライ部落」(砂山部落)と言われた長屋のような居住地域もありました。付近は、貧しい人たちも多かったようです。

 「サムライ部落」の成り立ちは、函館の風土の特性によるものかもしれません。

 すなわち、函館では、過去、多くの大火(大火事)があり、そのたびに多くの人命が失われました。そして、焼け出され生き残った人たちも、住居も家財も全て失った訳です。(その「大火」については、近々ブログで取り上げる予定です。)

 そのような人たちが集まり、「サムライ部落」を構成し、細々と厳しい生活を送っていたのかもしれません。

 冬の函館は、寒さが厳しいので生活も大変だったと思います。

 

消えた「砂山」

 

 その砂山は、戦中、戦後で、鉄を多く含む砂鉄が必要とされる時代に、国によってすべて取り去られてしまい、跡形もなくなってしまいました。

 そして、付近で生活していた「サムライ部落」の住民も立ち退きを余儀なくされたので、「砂山」も「サムライ部落」も存在自体が消え去ってしまった訳です。

 砂山の砂は、大森浜の砂と同じものです。

 観光名所の「啄木公園」に立ち寄ることがあれば、そこから、大森海岸に降りることができるので、是非、砂浜に降りてみて大森浜の砂を手に取って触って見てください。

 函館の大森浜の砂浜の「砂」は砂鉄が多く、黒く見えます。決して本州の砂浜のような薄茶色の砂浜ではなく、灰焦げ茶色です。これは、この地の特性ですね。

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冬の啄木公園から見る函館山

 

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啄木公園下からみる大森浜

 そして、この啄木公園の真向かいの辺りが、丁度「砂山」のあった場所です。

 話は、若干それますが・・上の写真にある、この大森浜のラインは、今、函館市世界遺産に登録しようとしている「縄文時代」から変わらない風景だと思います。筆者は、考古学も趣味ですので、この同じ海岸を縄文人が歩いたと思うと、一種何とも言えない感慨があります。

 話のそれついでに、もう一つ。

 今の時期は、「サクラマス」が獲れると、啄木公園で帰り支度をしている釣り人さんが言ってました。そして、実際この日にも釣ったそうです。「サクラマス」は、「ヤマメ」の海型ですね。「サクラマス」は「ヤマメ」と違って大型(70cmくらい)だそうです。

 以前のブログで書いた「松倉川河口のほっちゃれ(サケ)」は、「サクラマスだったかも知れませんね。

 さて、砂山に話を戻しますね。

 その「砂山」あった場所は、現在の函館市の「函館市日の出クリーンセンター」のあたりです。地元では、どういう訳か「清掃工場」と言ってますが・・

 当時の砂山の高さは30mほどもあったそうですから、丁度、「函館市日の出クリーンセンター」の煙突の高さくらいあったと思われます。そう考えると、「砂山」の風景も、なかなか壮観だったのではと想像します。

 

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函館市日の出クリーンセンター

歌に歌われた砂山

 石川啄木

  「東海の小島の磯の白砂に、われ泣きぬれて蟹とたはむる」

  「潮かをる 北の浜辺の砂山の かの浜薔薇よ 今年も咲けるや」

 これらは、啄木が愛した大森浜と砂山の辺りで詠まれたものとされています。

 

 そして、実は、我が母校の校歌にもあったんですねぇ~(今回、気付きました!筆者も罰当たりですねぇ~)

 だいたい高校生の頃は、普通、学校の校歌の歌詞の意味なんて考えていませんよね。歌詞自体、なんか難しい言葉を使っているし、山だの、海だのと・・。

 それに、歌う機会も卒業式と入学式くらいしかないし・・

 ということで、その校歌の歌詞です。

 

1  火柱のはためく峰も 年古りて緑の臥牛   
   宇賀の浦風の砂山 波よせてくずれ流るる
   見よや物なべてうつろふ窮みなし流転の相(すがた)

 

 早速、1番に「砂山」は登場していました。(へへへ)

 筆者が如何にいい加減な高校生活を送っていたか暴露したところで、今回は終わりにします。