7月15日は、「海の日」

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函館市のマンホール(五稜郭をかたどっています)

 ここしばらくは、蝦夷梅雨」でしょうか・・函館は寒い日ばかりが続きます。


 折角、函館山の夜景や観光地巡りを楽しみに訪れた観光客の皆さんには、心から「本当に気の毒です」としか言いようがありません。
 観光する際には、傘を持って、温かくして観光してくださいね。

 

 さて、以前のブログにも書きましたが、「海の日」は、函館が関係する国民の祝日です。
 参考ブログ : https://hakodate1859.hatenadiary.jp/entry/2019/05/03/174133

 

 函館は、昔から歴史的に「海と馴染みの深い土地柄」でしたが、年とともに、その「海と市民との親密さが薄らいできている」ようにも感じます。


 一昔前のことになりますが、函館は北海道での北洋漁業の基地ではなくなり、造船所の函館ドックも衰退しました。


 そして、その時代の頃には、威勢のいい、活気に満ち溢れていた函館湾の「岸壁」ですが、いまでは落ち着いた「風景の一部」となっています。

 

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「緑の島」から旧箱館税関跡の岸壁

 巴の形をした函館湾は、日本海と太平洋を結ぶ「津軽海峡」の、北側のほぼ中央に位置します。


 今回は、その函館の「微妙な位置」について、「海運」や「海の日」と関連させて述べますね

 

 まず、我が国の蝦夷への「海運」ですが、明治時代頃までは、皆さんが良くご存知の北前船」という船によって、北方「蝦夷」と「中央」の交易が行われていました。


 これは、日本海を北上、南下する航路で、帆船で京都や大阪の高級品を北へ運び、一方では、蝦夷のアワビ、昆布、魚を京都や大阪まで運んだりしたものでした。


 では、当時の「北前船」は、なぜ太平洋ではなく、日本海を使ったのでしょう。


 それは、太平洋と比べ、日本海の「海象」が安定していることによります。

 日本海側は、さらに海岸線も太平洋側に比べ、わりと優しく、天然の良港も多かったのも、その理由です。


 このため、実際に太平洋側の航路が利用されるようになったのは、江戸も後期になってからで、蒸気船が普及してからになります。

 蒸気船は、推進力もあり、航法能力も高かったため、波が荒い太平洋も問題なく航行できたためです。


 それと、太平洋は、今頃の時期、海上航行上、非常に大きな気象的な問題が起こります。
 それが、現在、観光客の方を悩ませている「蝦夷梅雨」とも関連する「海霧」です。
 この海霧は、北からの冷たい海流に乗ってきて、海のみならず、陸地にも押し寄せます。


 その海霧が、海上でこちら側に進んでくるときは、まるで「高さ数10mの白い真綿の壁」が押し寄せてくるような、そんな錯覚に陥ります。
 そして、船が「ずぼっ」と海霧に入ってしまうと・・途端に数十メートル先が見えるのがやっとです。


 このため、海霧は、船で航行している人には座礁「衝突」につながる大変な危険なものでした。
 現に、津軽海峡青森県下北半島先端の尻屋岬辺りには、昔、海難に遭った船も沈んでいるくらいです。

 

 しかし、一方で、この時期の海霧は、太平洋側だけの現象なので・・例えば、函館山に登ってみると、函館山の東側(太平洋側)だけ雲が多く曇っているのに、西側(日本海側)は雲が無く晴れているという、不思議な景色にもなってしまいます。


 今頃の、函館山は、ちょうどこの状況を体験できます。

 

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晴れている日本海側(函館山から)

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曇りがちの太平洋側(函館山から)


 ただ、眺望は(半分しか見えないので)悪くなってしまう。(この体験を、「奇特な体験」と思っていただければ、ありがたいなと思いつつ説明しています。)

 

 したがって、「海の日」の元となった、明治天皇が函館から横浜まで海路太平洋側を移動されたのは、正に艦船の航行能力と航法技術の高度化が、この時期の太平洋側の航行を可能にした・・と証明する快挙だったのです。

 

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函館湾中にある「緑の島」(GLEYのコンサートが行われました)