実は、このような本が、実家にありました。
出版されたのは、今から10数年前です。
この本の著者の、村井雄二郎氏は、銭亀沢の「古銭甕」関連の研究の大家です。
そして、表紙写真は、五稜郭の堀の氷に『箱館通宝』と彫り刻んだものです。
この本の前半は、その銭亀沢の「古銭甕」が、何故、いつ頃埋められたのかということについて、随分ページを割いて記述されています。
しかし、私は、この本を読み進むうちに、本の後半部分で私の眼は釘付けになりました。
それは、村井氏が「ふるさと回想」として、北海道新聞に連載していたコラム記事の連載ものを綴った部分でした。ページにして100ページくらいでしょうか。
たとえば・・・この写真。
これは、『函館山展望台の工事』と題されたコラム記事です。
この写真の函館山は、過去、明治時代から要塞化されて・・終戦までこの山の頂上あたりは、全て砲台が設置され、一般人は立ち入り禁止でした。
その場所は、ちょうど写真中央の平地全部で、この時点で砲台は既に撤去されています。上の方に展望台らしきものが見えます。
記事では、これは1953年に写された航空写真とのことです。
実に、函館山が一般開放された1946年から7年後の写真ということになりますね。
そして、写真に映っている人達は、多くの学生のようです。遠足か、なにかでしょうか?
さらに、この翌年の1954年には、頂上までの道路が、失業対策で完成して、それから『函館山の夜景』が、観光地として有名になったとの記述もあります。
そして、この本の中には・・函館少年刑務所の記事もありました。
前回の、私のブログで紹介した『刑務所の美しいレンガ塀』のレンガは、実は・・受刑者たち自らが窯で焼いたレンガであるとの記述もありました。
それが実際、現在のレンガ壁なのかどうかの確証はありませんが、・・そう思って改めて見てみると、逆に複雑な気持ちになりますね~。
そして、次に、この本の中の記事にある、1955年の港まつりの催事の写真ですが・・
場所は、現在の『グリーン・プラザ』のようです。
しかし、私は、この写真で・・舞台で何やら踊っている人を見つめる群衆の数(顔)の多さと、『密集度』に驚きました。
その写真が、これです。
現在の、社会通念では考えられない、対人距離の「近さ」といより、「密集度」と「接触度」です。
この写真を見て、函館にもこれほどの人だかりがあったんだという事実に驚きました。
現代で言えば、アジアの発展途上国のイベント会場・・そんな風情です。
現在のこの場所は、市電の「函館駅前」と「松風町」の真ん中あたりにあるグリーンベルトで、遥か向こうに見えているのが「函館山」です。
この写真を見た時。どういう訳か・・「夏草や 兵どもが 夢の跡」という、芭蕉の俳句が、私の頭に浮かんできてしまいました。
実際、私自身、この村井氏の書籍を見て「へーっ!!」と思う所が、多々ありました。
さて、今回のこんな情報は、函館観光のリピーターさんのための情報ではないのですが、私にとって新鮮な出来事でしたので、紹介させていただきました。
もし、好評でしたら、つまみ食いの抜粋程度で、今後とも、この村井氏の書籍に関して、『在りし日の函館の情景』を紹介させたいただきます。